新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


36回展から39回展のころ

海野静子

 36回展から39回展のころ、つまり1986年から1989年の4年間だが、なかでも1989年からが国内的にも国際的にも激動の年となった。国内では消費税問題、リクルート事件など政治不信が吹き荒れ、又、経済大国日本の国際的役割など問われるなか元号が平成に改まり、長く続いた昭和の時代が去ってしまった感慨深い節目の年となった。国際的には米ソ間の協調により東西緊張緩和、INF全廃条約による核軍縮ソ連のペレストロイカ、その新しい民主化の波は東欧の社会主義国を揺るがし、ついに東西ドイツの統合へと向かっていることは予測しがたい劇的なことであった。中国の天安門事件なども起き、国際社会の難しい問題は山積みではあるが、なんとか世界が一つになって、人類の危機ともいうべき地球の汚染防止に、世界規模で取り組んで欲しいと願わずにはいられない。

 この期に、新現会にも会員全員を打ちのめした重大事件が起こった。私達の柱ともいうべき創立会員の佐藤多都夫先生と志賀広先生が相次いで亡くなられたのである。痛恨のきわみであった。外部の人の中には、これで新現会は空中分解するだろうと期待する向きもあったようだが、間もなく開かれた総会では、ごく当然の事として新現会の存続は決まり、小山喜三郎氏を事務局長として結束が固まった。実はこの自由で民主的な気風の会をなくしたくはないという強い気持ちが会員全員にあったのだろう。今後、会が発展するのもしないのも、残された私達の仕事ぶり如何にかかわっていると思う。私的なことで恐縮だが、年1回新現会に出品して佐藤先生から批評を伺うのが楽しみで若い頃から25年間もお世話になってきた私には、先生のいない新現会などもう何の意味も持たないと思えた。しかし気を取り直して考えてみると、若くて未熟な私を分けへだてのない包容力で育てて下さったのは多都夫先生であり、そして新現会の仲間だったのだと。子育てで苦しい時も励ましをいただき、事務的な労力を免除してもらって絵の制作だけに回らせていただけたお陰で、こんなに長く描き続けてこられたのだと。この恩恵の分、これからはお返しをしていかなければと思い返した。

 とにもかくにも、ことしは全会員が気張って40周年記念展に力を注ぐこととなった。急に40回展のことになってしまったが、36回展のことに逆のぼらなければならない。36回展は昨年度同様、県民ギャラリーを会場に開かれたが、初めの試みとして、巡回展形式で一ノ関展を開催した。36年目という小さな区切りの年を迎えて、もっと発表の場を広げていこうという機運が盛り上り、31回展から会員に加わった小野寺良剛氏の骨折で、一ノ関文化センターを会場に開くことが出来たもので、展示には会員ニ十数名が一泊で一ノ関に出掛け、一ノ関文化協会の方達と交流会を持った。東北の地に新しい交流と芸術活動の輪を広げたいとの布石だったが、1回目としては目的を達成し成果があったのではないかと思う。今後どんな形でこれを発展させていくのかが課題だと思う。36回展から会員の作品写真入りパンフレットとなったのだが、38回展のパンフレットには佐藤先生の、39回展のには志賀先生と桜井文比古氏の追悼文を相次いで載せなければならなかったことは、何とも痛ましく悲しい。

 一方、体調をくずし、しばらく休んでいた高橋暁子さんが39回展では会員賞に選ばれる見事な復活ぶりを示したことは喜ばしい。正にウーマンパワーいや、マドンナ時代というところでしょうか。他の女性会員の活躍も目ざましい中で、宮地房江氏の精力的な制作活動、文化的貢献は、私達女性の目標ともなるもので、市博物館の壁かけ制作や「草染めかまふさ日記」の出版、同じく女性会員の幸脇幸子氏と共に「第4回みやぎの5人展」に出品したことなどが上げられる。

 勿論、夫々の会員の個展、東京の公募展、地元のグループ展、河北展などで安定した仕事をみせつけたことは言うまでもない。又、この期に、白井潤治、鈴木琢也、若生正子、白沢良雄の有望な若手新人の四氏が加わったところで、若手パワーに大いに期待がかかる。

 かくして、ことしは40回記念展を迎えることになったのだが、「同人展の成立は競争の原点に立って、どんな実験的作品も出品できることであり、私達はそれを信条として、一点にとどまることなく新しい方向を求めて競い合ってきた。」と30年誌や36回展の巻頭言に志賀先生が書いておられたが、この先人の方達の求めてやまなかったものを、私達は気持ちを新たにして、追い求めていきたいと考えている。


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