新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


26回展から29回展まで

芳賀広至

 26回展からのことをまとめることになりましたが、私は会員としての自覚が欠けており、先輩会員の苦労の基に参加して来ましたものですから、内容不足になると思いますがお許し下さい。

 26回展からと申しますと私が入会して2年目からのことになりますが、国際的、国内的に大きな変動の時期になっているのが感じられるのではないでしょうか。

 円高ドル安と石油危機、相続く企業の不正事件、明るいこととしては日中平和条約の締結があるが、反面では中ソの対立と、我国の軍事費の増大ということも憂慮すべきことであります。

 地元の事件としては、53年6月の大地震を忘れることはできない。

 各会員のアトリエも多大な被害を受け、また今後の学校などのアトリエ建設に対しても考えるべき点を多く残した。

 (26回展) 1977年2月

 26回展より市民会館展示室より、市民ギャラリーに移り開会となった。

 市民会館の時に比べ、狭くなったようではあるが、パネルの設営の面ではかなり楽になった。また観客の動員の面でも、場所的な面で、かなり増加したのはないでしょうか。展覧会そのものでは、早坂健が、この時から連続して会員賞を受賞しており、彼の時代を感じさせる。

 もうひとつの大きな印象は、創設会員の佐藤多都夫が、油彩の世界から、水性のリキテックスをキャンバスに流し込む技術で、新しい絵画空間を生みだしていることであった。

 では私のことを申しますと、この年暮れの仙台駅前のビル火災により、26回展出品作はなんと幻の名画と消えたのだった。

 (27回展) 1978年2月

 この年2月は私が入院しており、展覧会の内容についてはさだかではないが、長年続けて刊行されてきたパンフレットの廃止と、会費の値上げが思い出される。

 パンフレットについては、広告の問題などがあり廃止となり、代わりに各会員の作品を両面に印刷してポスターとした。

 ただパンフレットが廃止され困ったのは私であり、年間の資料として残すべきものが欲しいのではないでしょうか。

 会費は創設より千二百円で行われてきて、この年より五千円となった訳であるが、この安い会費が、会を長続きさせる要因であったことも確かでしょう。

 またこの年の8月より秋の新現美術展が開催されることになった。第一回のころは商品展のような作品もあり、私には同会場での女流三人展の方が印象的だった。

 第三回展は会場も適当であり、なかなか見ごたえのあるものだった。

 (28回展) 1979年1月

 展覧会では招待者も多く盛況であったと思う。

 他の行事としては、例年行われてきたレクレーションが野蒜で実施されたが、伊勢氏の活躍で地引網は大漁であった。

 また記憶に残ることは、成瀬忠行が退職し、自分の画集を出版したことや、早坂健が芸術選奨を受けたことなどがあった。

 (29回展) 1980年1月

 今年の展覧会であるが、全体的には盛り上りに欠けたが、佐々木健治や小山喜三郎の意欲に満ちた作品は印象的だった。

 その後30回記念展に向けて活動が開始されたのであったが、昨年の佐藤多都夫に続き、佐々木健治、高橋貴和と体調不十分で入院することになり、本会も体力的に危惧の念を感じさせた。

 ただこの4年間を振り返ってみると、創設会員の佐藤多都夫、志賀広、成瀬忠行が新たな試みで表現を続けており、宮地房江もまたスイス美術賞展など出品受賞し、若さを感じさせていますが、私を含めて若い世代の会員は実力不足であり、今後一層研鑽を積まなければと反省させられるのです。

 最後に新現美術協会の新しい創造に向かって、一人一人が会員としての自覚と責任を持って行動し、制作においては、常に新しい試みを続けて行くこと願いまとめとします。


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