新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


21回展から25回展のころ

斉藤敏行

 21回展から25回展へ即ち1972年からの5年、大陸中国の両巨星毛沢東、周恩来があいついて逝き、海向うアメリカはベトナムに敗れ、中国との国交を樹立したニクソンがウォーター・ゲート事件により辞任を余儀なくさせられる。国内をみると列島改造論の鳴物入りで登場した現職首相が航空機汚職によって逮捕されるという前代未聞の出来事はわれわれにある巨大な象徴の焼失と失遂とまのあたりにさせた。そして、それらの全てがあたかも身辺でおきる日常事のように、いやおうなしにテレビジョンのわくから映像を通して疑似体験させられる。ことに浅間山荘事件をある種のスポーツ中継のようにNHK・TVが9時間にわたって実況放送したことは、われわれの存在がテレビジョンによって送り側の意識とはかかわらず自己を含めて他者も単なる映像にすぎないのではないという冷めた視点を提示した。

 このような時代を背景にして開かれた第21回展の巻頭言で次のようにうたう。「仙台という土壌に根をおろし、この地域社会の中に浸透していった21回展までのプロセスは必ずしも順調なものではなかった筈である。(中略)゛70年代われらの世界とはTVのタイトルであるが、混迷し変動を続ける現代芸術の波涛を浴びながら確実に自己のセオリーとイデーの光条のもとへ歩みを進めたい。将にエコール・ド・センダイの意識こそが我々作家集団の創作、表現活動の根底でなければならない、(後略)又第22回展のそれにもこの仙台の土壌に何を求め何を与えてきたのだろうか・・・」と述べていた。

 80年代の今日地方の時代といわれ、又1977年度版朝日年鑑の美術界の動向の中で日本美術界の゛中央意識離れ゛という現象をトップに取り上げていた。しかしここでいう地方という概念は、そのものが中央、つまり東京を中心とした年がつくりだしたものであり、それがいわゆる地方に住む人間に押しつけられているような気がしてならない。

 我々が第21回展でエコール・ド・センダイを唱えた時、そこには本来の意味での地方という源流ではなく、無意識下のうちに年から地方へと美術潮流というスタイルを流しこむ水路づくりを志向していなかったとは言えない。

 地方文化を語る時 懸案の美術館設計にあたり、在仙の作家が本来の美術館には無用とも思える、展覧会スペースの拡大を申入れる。これなども作家と観客との間に水路を設定することによって、文化が育ちはぐくまれるものとする安易な思考の一旦ではなかろうか。

 又、この時期、観客や作家集団内でのコミュニケーションが提起された。しかしこのことについては会としてより作家個人がより問題をかかえこむ暗中模さくの中で内向してしまい展開のないまま解決の糸口もつかめず放棄されているのに気づく。

 多年駅前丸光の8階で開いていた展覧かを市民会館、現在の市民ギャラリーと会場を移動したことも特記しなければなるまい。

 最後に等21回展を待たずに永眠された我々会員の温かいバックボーンであり続けた松田春雄先生のめい福を祈りたい。


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