新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


16回展から20回展のころ

早坂貞彦

 万博、高速道路、いざなぎ景気、そして月面着陸、政治ではベトナム反戦、文化大革命、チェコ事件、沖縄返還、成田斗争、公害告発そして東大封鎖に発する学園紛争・・・・1967年から1971年は価値観が大きく変わった活気に満ちた時期であった。

 世界的な価値観の変動期は芸術家を多様な変革をうながす担い手とする。ポップ、オップ、サイケ、ハプニング、イベント、コンピューターアート等々時代の芸術用語が前衛作家ばかりでなく、広範囲の画家の、あるいは一般の人々の会話にも登場する時代でもあった。

 1970年に20回展を迎えるまでの5年間、前衛を志向する、しかも平均33〜34歳であった新現会の各会員はこれら社会事象に作家として関心のないはずはなかった。

 夫々強い個性と制作理念を有し、時代のスタイルに右顧左眄されることのない新現会の会員ではあるが、会という広場を自己の制作の為に大いに活用しようとし、会をコミュニケーションを図る場とし世の前衛芸術について論じあった。

 その為に様々なこころみがなされたのであるが、その1つには毎年の新現会パンフ発行活動がある。

 それは各会員の発言と作品写真がよせられたのは勿論、本会の顧問会員とも云える塩田長和氏、三井滉氏、西村規矩夫氏が文章会員の意気ごみをもって論評を寄せて下さったこと、誌上討論として1969年に行われた佐々木健治と斎藤俊行両会員による「造形Communication」等が思い出される。

 2つには話を聞いてみたい美術評論家を招いて公開講演会を企画し私共も学習したことであり、16回展には三木多聞氏、17回展には中原祐介氏、18回展には宮川淳氏、20回展には在仙の前述の三井滉氏及び土屋瑞穂氏による公開講演も行ってきた。

 第4には有志会員による新現会内部ゼミであり金曜日の市民のための美術教室終了後、幸福堂の二階などでレポーターを中心に学習会を持ったのもこの期であった。

 第5には成瀬会員の知人の御好意よりアットホームな新現会館による進学指導やアメリカ文化センター及び市の教養センターにおけるクロッキー奉仕もあげておきたい。

 会員の同行についてであるが、唯一60代の松田会員を筆頭に志賀、桜井武彦、宮地房江、佐藤多都夫会員等の50代作家と多数の30台前半会員、それに、この期に伊勢、小野、鈴木昭子、高橋貴和、庄子、中村、飯野の若手新人を会員として加え熱気ある会を形成することができた。申すまでもないことながら夫々の会員が個展、県芸術協会、中央や地元のグループ展とめざましい活躍を残したことも書きそろえておきたい。

 まとめとして、時代的にも会の構成上からもシラケの時代を知らぬこの期は各人の貧欲なまでの芸術に対する探究心が自己の内にのみならず外にもはたらきかけ、巾広いコミュニケーションをはたしたことを特記したい。

 今30回展を迎えるにあたり今日の我々への檄文として1970年第20回記念展のマニファストの一文を想い起こしてみたい。

 「新しい美術のあり方を探求する共通の目的をもって、戦後の混乱の中から、同志9人を集めて旗を挙げて20年の歳月を経た。会員を増しながらこの年月は、日本の変貌のすさまじさをそのまま、我々の追及の熱意に置きかえて精進してきたといえる。その展覧会が現代美術の意義を持たないものであるならば、それは吾々の責任である。仙台の地に着実に根づいた現代美術の作家群としての自負をもって、吾々は長い歴史よりも、未来への姿勢を見てもらうために、この展覧会をひらくものである。」


- back -